おばあちゃんのこと。
言いようのない感情は、本当に言いようがないなあ。
今日思ったこと。
日本語って、美しい言葉だなあ、と思う瞬間がしばしばあります。
(私の使いかたは、ちょっと変かもしれませんが)
「言いようのない」。
言うことができない、言えない、とも違う。言葉が見つからない、ともちょっと違う。言葉にできない、も違うけどちょっと違う。
感情に名前をつけられないとき。それを言葉など含めて表出できない。
そういうもやもやっとしたものと出会うと、何かが生まれることがあります。
私の場合、それは歌だったり、はんこだったり。
昨日、GEISAI#17が終わりました。
ここ数週間、ずいぶんとエネルギーを費やしていたイベントでした。
そしてこの日、おばあちゃんが亡くなりました。
老衰でした。92歳。
ゆっくりとした日曜日に、息子と娘に囲まれて。おばあちゃんはすっと息を引き取りました。
ちなみに「息を引き取る」という言葉にも美しさを覚えますが、それはまた別の話。
私のおばあちゃん、については、
私の作品をご存知のかたは、もしかしたらすこしご存知かもしれません。
私の、大事な似顔絵作品のなかに、おばあちゃんの似顔絵はんこ、があるからです。
はっきりとは覚えていませんが、たしか制作したのは2010年11月頃。
2010年の9月に会社を退職した私は、ふらふらと西日本をさまよう旅に出ました。
その前に、退職祝いというか、なんというか。
おばあちゃんは私に2万円のお小遣いをくれました。
うれしくなった私は、その臨時収入で、ウクレレを購入。あっという間にお気に入りになったそいつを持って、私は旅に出たのです。買いたてでろくに弾けもしませんでしたが、たまに各地で歌ったりもしました。
帰ってきて、おばあちゃんに旅行の写真を見せたら、おばあちゃんはうれしそうに見てくれました。そしてウクレレも見せて、おばあちゃんにも弾かせてあげた。(無理やり持たせたともいう)おばあちゃんはすごく嬉しそうでした。そのとき撮った写真をもとに、このはんこを後日彫ったのです。
それまで趣味でたま〜に彫っていたはんこでしたが、
おばあちゃんのはんこを彫って、自分で結構びっくりしたのです。
おや、これ随分といいのではないかい、と。
他の人にも見せられるくらいのものができた、と思いました。
その後就職活動なども少ししてみたものの、なんだかあまりうまく行かずすぐに頓挫してしまい。
まさかはんこ屋に転職、というほどの大それた気持ちではありませんでしたが、
やれるところからやってみよう、と思い、2011年の1月から、オーダーはんこをはじめたのでした。
その後そう長くない期間ののち、おばあちゃんは入院。
しゃっきりと自分の力で暮らしていたおばあちゃんが、体の面、言葉の面など、色々な面が不自由になりました。
それはおばあちゃんにとって、家族にとって、私にとってもとても衝撃的なことで。
お見舞いに行ったときに会ったおばあちゃんはすごく弱っていて。
もう逝きたい、というメッセージを繰り返した。
「生きすぎた」と。少し笑いながら。
それはあまりに、重い言葉でした。
それでもほどなくしておばあちゃんは、リハビリののち、ずいぶんと回復して、退院することができて。奇跡的とおもわれる頑張りを見せてくれました。
「みんな生きろっていうんだもんねえ、やれやれ」というようなおばあちゃんの優しさを、私はなんとなく無責任ながら感じていました。
そう感じながら、歌も作ったりしました。
「生きすぎた」という歌でした。(歌詞はここに載ってます)
近所に住んではいながら同居しているわけでもなく、しょっちゅう顔を合わせているわけでもなく。
それでもおばあちゃんは、会いに行けば歓迎してくれる、そこにいてくれる、あたたかい存在で。
それは家族にとって、おばあちゃんの周りの人達にとって、みんなそうだったと思います。
そうしておばあちゃんは、最後の最後の日まで、ゆっくりと、優しく、そこにいてくれた。そして、そっと息を引き取りました。
人が亡くなると、周囲の人はそれをすべていいように解釈しだす。
私も例にもれず、そうで。
GEISAIの終わる頃、息を引き取ったおばあちゃん。
準備に追われた時期にでもなく、前日でもなく、当日の朝でもなく、搬出のころ。
そしてこの日は、家族やお友達が、集まることのできた日曜日。
本当に都合のいい解釈だけど、
おばあちゃんが選んでくれた日だったんだなあと思っています。
おばあちゃんを失った悲しみは大きいけれど。
特にマザコン(笑)と噂されていた私の父の悲しみは、きっと、もっと、ずっと。
だけど今回のGEISAIのために、私がメインの展示に選んだ被写体は、偶然にも自分の父でした。
夏に生まれた兄の子供、つまり初孫、を抱く父。ハガキサイズのはんこ6つ分の、なかなかの大作です。
あまりそこまで深く考える事もなく、60歳という節目に、初孫を抱く父はなかなか感慨深いなと思いながら彫ったのですが、
この日を迎えてみて思うことは、なんだか、新しい命を抱く父、を彫ったことに勝手に縁を感じるなあということ。
また自分本位な解釈ではあるんですが、今このはんこが彫れてよかったなあと、個人的には思っています。
元をたどればおばあちゃんが与えてくれた自信。
そしてそれを続けることによって生まれた作品。
おばあちゃんは色々なことを教えてくれたし、与えてくれたなあ。としみじみ思っています。
今日見たおばあちゃんの姿は、本当に綺麗で。今にも動き出しそう、と誰もが口々に言っていました。
そしていとおしそうに頭をなでて、「でも冷たいね」と。
お葬式はまだ少し先だから、お別れは言い切れていないですが。
今日の時点で思ったことはこんなかんじでした。
ここまでつらつらと書くのは初めてですが、自分にとって、大きなことだったので、書かせていただきました。
私事で失礼しました。
さくはんじょ あまのさくや