「僕らのカヌーができるまで」@ポレポレ東中野 を見ました。

相変わらずはんこに関係ないことばかり書いていますね。
今日はこういう映画を見ました。

僕らのカヌーができるまで


探検家・関野吉晴さんが現在挑んでいる、日本人の祖先の足あとを辿る旅、「新グレートジャーニー」の最終章としての、インドネシア〜沖縄の海洋ルート航海のための、第一歩として、武蔵野美術大学の生徒たちに呼びかけた計画。
「自然から直接採取した材料だけで、手作りのカヌーを作ろう」。
そしてその道程の第一歩は、砂浜での砂鉄集めから。その砂鉄から、電力も使わずに製鉄を行い、鉄斧をつくる。そしてその斧を使って木を切り出してカヌーを作る。そしてそれを使って海を渡るというのが計画。
それはもう想像をはるかに越えた果てしない道のり。

あまり深く考えないままに、軽い気持ちで見に行ったのですが。
いや、本当に、想像以上に果てしないのですよ。
時間がかかる。労力がかかる。力を使う。失敗をする。探す。ひたすら目指す。そういう世界というか。

私も、手づくり市に出たり、「アーティスト」とたまに呼ばれてしまったり、『つくる』ということにまがりなりとも携わっているニンゲンなはずなのですが。
そもそも私が今作っている「消しゴムはんこ」というものは、素材も何も、誰かがかき集めた素材を誰かが加工してくれてそれをさらに商品化してくれているというもとにある素材で。
それは素材と呼ぶにはずいぶん遠いところから始まっているよなあ、とは常々思ってもいたんですが。
ここまで「ものづくり」の原点を見せつけられると、なんだか、かきたてられます。

パソコンやプリントがはびこる世界で、この世にひとつしか存在しえないはんこを彫る、というものは、ある意味では「非効率」な世界でもあって。その一つ一つにこだわりを持つということは、もちろん何かをつくるニンゲンとして当たり前のことだし。そこの部分が誇りであることもある程度は揺るがないのですが。

砂鉄を集めて、たたら製鉄(足踏み式の送風機で風を送って木炭を燃し、砂鉄をとかして鉄を作る方法)という手法を使って製鉄をしたものを、うちのばす刀鍛冶さん、野鍛冶さんの仕事。それを使って巨大な木が倒れたときの迫力。それをさらに舟にしていくという細かい、船大工さんの果てしない作業や技術のひとつひとつ。その上に塗る塗料だってもちろん自然から集めてつくったもの。それはアスファルトより丈夫だというし。

そんなものを見てしまったら、自分のちっぽけさったらないなあ、と、改めて感じてしまいました。
と、同時に、うずうずとなんだか疼き始める手。

私のサイトを見てくれるかたは、作家さん含め、「てづくり」というものに敏感な方が多いと思うので。これはぜひ見てほしいです。
とりあえず2013/3/29(金)まではポレポレ東中野にてレイトショー上映してるそうです。

私が行った今日のトークショーは、映画監督の鎌仲ひとみ監督と関野さんの対談でした。
「縄文」的なものづくりのはなしから、原発の話まで。
印象に残ったのは、知識、ということについての話。
「自分が動いて、自分の労力で得た知識」と「教室の中で得られる知識」との違い。

教室を飛び出した世界で、カヌーづくりをみんなで目指している大学生たちの、まっすぐさといったら。
彼らは自分の言葉で話してるし、自分の経験から得た知識を話している感じがした。

うーん、やっぱり、圧倒的に足りない、知識。

ものをつくる環境、技術、まわりに求められるもの、自分のしたいこと、できること。
色々な考えるべき要素があるにせよ。この映画を見て、私は、手を動かしたくなったなあ。

いい映画でした。