2009年のMacをつかう私の標準
iPhone6が、発売されたとか、並んだ人がいるとか、割り込んだ人がいるとか、買えた人がいるとか、いないとか。
最近ほとんどテレビを見ない私には、インターネットからの情報がだいたい頼りで。
貪欲に追えば詳細な情報なんていくらでも出てくるけど、さして興味を引かない情報を、画像と文字で追うのは、テレビなどの動画よりも一層遠い感じがします。
私は、どこか懐かしいものもとても好きだけど、
古めかしいものばかりを好む、というタイプでもなく。
新しいものもわりと好きです。
iPhoneは5を持っているし、SNSだってそれなりに使う。
それなりに新しいもの欲しくなることもあるし、
経済的な事情で買えないだけ、というものもたくさんあります。
私がいつも使用しているPCは、2009年くらいに購入したMacbookちゃんです。
Airのようにスマートに薄くもなく、どっしりとした厚みもさほどない、私にはとてもちょうどいいタイプ。
これは私の扱い方の問題なのですが、
私はあまりMacbookちゃんの中身を更新したりしていません。
やりようはいくらでもあるのでしょうが。
Appleさんがバージョンアップバージョンアップを重ねるごとに、
時が止まったままの箱であるMacbookちゃんは、古くなってゆきます。
これはさして珍しい現象ではなく、
じゃあアップデートしなさいよ、という話だけど、
いつの間にか自分が持っているiPhone5の新しさに、私のMacbookちゃんはついていけなくなってしまいました。
これはどんな電化製品にも言えることで、
たとえば地デジ非対応のテレビが不要な箱になってしまったのがつい去年の話だし。
新しいものが増えれば増えるほど、古いものも増えていく。
「古いもの」は、たいせつに使い続けたとしても、いつか終わりが来て。
(その終わりが「老朽」なのか「飽き」なのか「新しいものへの興味」なのかはまた別の話。。)
直そうとして直らなくなって、そのときにまた新しいものに替えたりする。
そうして「新しいもの」は生活の一部になって、
人々の標準が、時間をかけて、あるいはあっという間に、「最新式」に更新されていく。
でもそうやって、人々の標準の「最新式」が更新されていくにつれて、
古いものを使い続ける人が、「新しいものを扱えない人」となってしまう日が来る。
それはとても無意識にやってくる。
電化製品だけではなくて、
ピッと使えたりポチッとできる日々の便利なツールのこと。
ピカピカに整備された駅や道や建物のこと。
スラスラ流暢に出てくるマニュアルのような言葉のこと。
しかし、「都会は嫌だ」とか「技術革新に反対」とか「温故知新」とかそういうことを言おうとしたわけではないのです。
今、当たり前に存在するものに、スラスラっと乗ったり、理解して扱うことができない人を見かけて、
イライラなり、モヤモヤなりする自分がいたら、
自分の中の「標準」を、もう一度見なおすべきだな、と思ったのです。
ただ、なんとなく。