空気を読まない会話

空気を読まない会話がはじまる瞬間って面白い。

私は人と話すのが好きです。
人の話を聞くのが好きだし、自分の話をするのが好き。といったら当たり前のように聞こえるとおもうけど。

私は、まったくついていけない会話の中に自らの身を置くことがよくあります。
そういう場所を居心地悪く思うなら、退席したり、そもそもその場に行くことを選ばないのでしょうが。
よく顔を合わせる人だから、気心しれている人だからと言って、その人の興味関心が自分と一致するとも限らないし、そうでないことのほうが多い。
それでも人と人との会話って、そうやって、お互いの知識や興味が重なり合う部分だけでなんとなく会話をするか、あるいはどちらの趣向も深く反映されないような世間話になるか。そういううわべ部分の会話しかできないことも多いから、それ以上に深く突っ込める共通項を持つ人と出会うと、そこだけでしか伝わらないだろう用語が飛び交ったりもするし、どうしても会話の温度が熱くなったりもする。

もちろん分野によっては、わたしもかなり熱くなるしマシンガントークをし始めてしまうタイプです。
だけど同時に、周囲で繰り広げられている熱い会話を、はたから眺めたりするのが結構好きでして。
全く知らないしついていけない、と思いながらも、近くでその温度を感じるのが好きなのか。
あるいは、要素だけ拾って少しは解釈できるもんならしたい、とくらいは思っているのですよ。
ただその熱心なトークに自分が影響されるかどうかはまた別の話で。

先日、ひさびさに会う友達が開く会合に参加しまして。
久しぶりに会う人や初めて会う人が多かったにもかかわらず、相変わらずあの居心地の良さは、
空気を読むことを強いないあの雰囲気がもたらすものだろうなと思いました。

親の転勤で3年間アメリカに住んでいた小学校時代に強く根ざしていた、「異質である」という、やや過剰であった自意識。
その頃のトラウマなのか、「空気を読め」という空気を敏感に感じ取ってしまうらしいのですね。
それを原因にひどいいじめにあったわけでもないのに、周りと違うということにことさら敏感な年齢でもあったからか、
特に同年代の会合においてそう感じる機会は、小中のみならず結構あって。

もう今更そういう年齢でもないのですが、少しでもそれが求められそうな場は今でも避ける傾向にあります。
そういう意味ではそこをなかなか乗り越えきれずに、直感的に居心地のいい場所を探した結果、それぞれの場所にたどり着いているのだろうなと、ふと。

そういえば少し前に流行った手相占いで、「空気読めない(KY)」線というのがありましたね。
手のひらに、ひらがなの「て」という字が、線がつながっていて成立している人は空気が読めて、離れているひとは空気がよめないそうです。
ちなみに私は、左右ともにむちゃくちゃ離れています。
(この言葉が流行ったのは二十歳そこそこの頃だったと思いますが、「こんな離れてる人初めて見たよー!!」という無駄なコメント付きで指摘された記憶があります。思春期だったらそこそこ傷ついてるやつですねこれは)